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ほんとうの死とは何か-「唯脳論」は新しい唯物論

『脳死と臓器移植の問題に関しては、よく、「脳死は医学的に死である」という言い方がされますが、「医学的死と宗教的死とは違うのか」ということも問題になると思います。
「二種類の死があるのか。それとも、結論は一つしかないのか。あるいは、一方の考え方は真実の一側面しか捉えていないのか」こういうことに関して述べてみたいと思います。
まず、思想的な面から話を始めましょう。
いわゆる西側陣営が共産主義圏との冷戦に勝ったため、1990年代以降、マルキシズムに基づく唯物論は、思想的には、かなり衰退したように見えます。しかし、「戦後日本を幅広く覆った唯物論は、いま、別なかたちで頭をもたげてきているのではないか」と私は考えています。
それが「唯脳論」です。要するに、「人間の本質は脳にある。脳こそが人間の本質であり、脳が機能しなくなれば、人間は死体も同然である」という考え方です。これは、古くからある「人間機械論」の焼き直しと言ってもよいと思います。
こういう医学的唯物論、医学マルキシズムとも言うべきものは、マルクス的唯物論に代わる、新しい唯物論だと思います。
臓器移植法案を巡る議論においても、その背景には、「唯物論」対「あの世を信じる宗教観」という戦いがあったと言わざるをえないのです。』

      -2004年4月
      --- 「永遠の生命の世界」 第3章 脳死と臓器移植の問題点 より

H0204.jpg

ご訪問ありがとうございます。
世間は民主党の代表選で持ちきりですが、それはちょっと横に置いといて、
再度、脳死問題を取り上げてみました。
あっ、その前に、書籍のご紹介をさせていただきます。

年を取ってから、死ぬ原因の一番多いものが、がんだと言われていますが、
がんと闘いながら、死と向きあいながら、亡くなられた、
朝日俊彦医師の書籍が発刊されるようですね。

P0233.jpg
「がんの幸せな受け入れ方」
 2010-09-07発行


余命は長くて一年――
がん告知100%の末期医療スペシャリストが、自らの末期がんをどう受け入れ、
どう死と向き合ったのか。
不安を鎮め、癒しを与える「感動の手記」。
元あさひクリニック院長 朝日俊彦医師、最後の言葉。


がんでお悩みの方も、そして、そうでないかたも、きっと、
いろいろな学びがあると思いますので、ぜひ、ご購読くださいませ。

さて、7月に一部改正された臓器移植法が施行になり、
8月に家族承諾の臓器提供の2例目の報道があったときに、
脳死による臓器移植の真相-脳死者は臓器を取られると驚愕する
という記事を掲載させていただきましたが、悲しいことに、
6例目の家族承諾による臓器提供の報道がありました。
そして、5例目の方の移植は、終了したとの報道もありましたね。

家族承諾の臓器提供、5例目の移植終了 : 科学 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
九州北部の病院で1日に脳死と判定された40代女性から摘出された心臓と肺、肝臓、腎臓、小腸を6人の患者に移植する手術は3日、全国5病院ですべて終了した。
 患者の経過はいずれも良好という。家族の承諾による臓器提供は、7月の改正臓器移植法全面施行後5例目。

1人の提供で8人に移植へ 東北の病院、家族承諾6例目 - 47NEWS
日本臓器移植ネットワークは4日、東北地方の病院に頭部外傷のため入院中の成人男性が法的に脳死と判定され、臓器提供が行われる予定だと発表した。提供された臓器を移植する患者は計8人の予定で、移植ネットが扱う臓器では1人からの提供としては過去最多。
 厚生労働省によると、アイバンクが扱う角膜を含めると、9人に移植された例はあるという。今回、眼球は提供されない。
 移植ネットによると、男性は書面で提供の意思を示しておらず、家族が脳死判定と提供を承諾した。生前、提供に関する話はしていなかった。家族は「本人がどこかで生きていると思えることは私たちの心の支えになります」と話したという。
 7月に施行された改正臓器移植法に基づく「本人意思不明」の6例目。脳死移植が行われれば1997年の移植法施行以来、93例目。
 心臓は東京女子医大病院で20代の男性、肺の一方は岡山大病院で20代の男性に、もう一方は京都大病院で50代の男性に、肝臓は名古屋大病院で50代の女性、膵臓は藤田保健衛生大病院で20代の女性、腎臓は福島県立医大病院で50代の男性と40代の男性に一つずつ、小腸は九州大病院で20代の男性に、それぞれ移植される予定。


今回の6例目というのは、家族承諾、本人意思不明の6例目で、
移植法施行以来では、93例目になるんですね。
まだ本人が納得されているのであれば、やや、あきらめもつきますが、
本人さんが納得されずに脳死の段階で臓器移植が行われたら、
ほんとに、かわいそうですね・・。

一人の提供者から、いろいろな臓器を、6人とか、8人に移植するんですね。
多くの方の命は助かるでしょうが、多くの方の魂が傷付きますね・・。

さて、今日は、臓器移植の問題から、すべての人類に平等に与えられている
「死」の問題まで、ちょっと思いつくままに綴ってみます。
人は必ず死ぬものですが、死に対する心構えがあると、突然死がやってきても、
慌てなくていいですから、ぜひ、知っておいて欲しいですね・・。

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「人は必ず死ぬものだ」という覚悟を-死は突然にやってくる
『死は、ある日突然にやってきます。人間は平均的には八十歳前後の年齢で死ぬことになっていますが、個人差はさまざまにあるので、小さいうちに死ぬ人、小学生で死ぬ人もいれば、中学生、高校生で死ぬ人もいるし、ある日突然にやってくるのです。
海岸で遊んでいると、いつのまにか潮が満ちてくることがありますが、それと同じように、ある日突然に、この世の命というものが終わる時期が来ます。水がヒタヒタと寄せてきて、いつしか、膝のところから胸のところ、さらに頭を没するところまで、ザーッと
満ちてくるのです。そういうものなのです。
逆説的に言うと、「人は必ず死ぬものだ」という覚悟が早くできた人ほど、この世で与えられた人生を有意義に過ごすことができるわけです。それを考えもしないで遊びほうけていると、突然に死ぬことになります。それは、いつ来るか分からないのです。
誰しも平均寿命を中心に人生設計をしているでしょうが、そのとおりにはならないこともあります。そのため、いつ、この世を去ることになっても、「一定のお役には立てた。また、次のチャンスに賭けたい」という気持ちで去っていけるだけの生き方をする必要があるのです。それを考える必要があります。
たいていの人は、やはり、「死は悲しいことである」と、どうしても思ってしまうでしょう。ただ、「自分が死んだあとに、どういう仕事が残るか」ということを常に考えていくことも、非常に大事なことなのです。
大勢の人々の、死後の姿を見るにつけても、「ああ、ほんとうに、心の準備ができていなかったのだな」ということを、つくづくと思います。そもそも、死後の世界があること自体を知らない人、認めていない人が大多数ですから、まったく準備しようもありませんが、死は突然に来るのです。そのときに、地上に執着し、自分の家に執着し、会社に執着し、家族に執着しても、もう、どうにもなりません。
死んで霊となった以上は、悲しいことに、この世の人に自分の声が聞こえないのです。いくら話しても聞こえないし、前日までは触ることができた家族の体も、触ることはできないのです。
想像してみてください。これは、ある意味では辛いことです。「自分の声が相手に聞こえない。話しても、相手は聞いてくれない。相手の手を握ろうとしても、握れない。相手を抱きしめようとしても、体をすり抜けてしまう」ということです。
こういう世界なのです。これが、現実として、やってくる世界なのです。
遺言をすることができた人はよいほうであり、できない人も多いので、「死んだあとに執着を残してはいけない」と言われても、たいていの人は執着が残ります。「もし、きょう死ぬのだったら、あれもしておくべきだった。これもしておくべきだった」と思うことはたくさんあるのです。
したがって、「死のための準備は、生まれたときから、もう始まっているのだ」ということを知らなければいけません。
ガンなどにより、「残り半年の命」、あるいは、「残り一年の命」と宣告されて亡くなる人もいますが、その不運を嘆く必要はありません。百人が百人、やはり、何らかの死因で必ず死ぬのです。老衰して死ぬのが幸福かもしれませんが、ガンであれ、必ず死ぬことは死ぬので、それに対して、不幸を、不遇を嘆いたりしても、しかたがないのです。
「必ず死ぬ」ということについては、覚悟はしておいたほうがよいわけです。
ただ、前述したとおり、四季が巡っていくように命が転生しているので、その法則から言うと、やはり、何百歳にもなるまで生きないほうがよいのです。
死んでくれる人がいるから、赤ちゃんが生まれてきます。それは間違いのないことです。そうしないと、この世の世界の人が、みんな老人になってしまいます。死んでくれる人がいて、赤ちゃんがいるのです。』

      -2004年4月
      --- 「永遠の生命の世界」 第1章 死の下の平等 より

そうなんですよね。
人は必ず死ぬんですよね。
その死が、早いか遅いかだけの違いなんですよね。
人間は、死の下にみな平等なんですよね。
でも、病気になったり、事故にあったりして、死に直面すると、
きっと、不安になったり、怯えたりして、平静心でいられなくなるんですね。

私は、けっこう元気に過ごしていますので、自身の不安はまったくないのですが、
同居する両親が、もう、いつポックリ逝っても不思議ではない歳なんですね。
そして、我が娘も、余命2年の宣告を受けてから、もう2年と8カ月が過ぎました。
また、姉は、先月、がんが見つかり、三度の手術を受けて入院中です。

先月末に、姉が少し話が出来る状態になったので、
顔を見に行こうと準備していましたら、娘が、
「私もお見舞いに行きたい」と言ってきたんですね。

・・・・。
見舞いに病人を連れて行くのか・・。
ふと、考えましたが、本人が行きたいと言うので、一緒に連れて行きました。
まあ、この娘は、自身で、「働く病人」と豪語していますので、
たまに寝込むことはありますが、治療を続けながら、働いています。

両親のお目付け役に、二人の孫を置いて、見舞いに行ったら、
娘を見て、姉もびっくりしていましたが、連れて行ってよかったと思っています。
久しぶりに、娘と二人、ドライブ気分で高速を飛ばし(?)
久しぶりの外食をしてから、姉の顔を見てきました。
両方の顔を見れたので、とっても充実した日でした。

私は、病人の気持ちは分かりませんが、病人を持つ家族の気持ちはよく分かります。
娘の告知を受けたときは、しばらく泣きました。
そして、姉の告知を受けたときも、やっぱり泣きました。

でも、一番、辛いのは、本人ですから、家族の私が落ち込んでいても、
どうしようもないんですね。
私は、人は必ず死ぬものだと思っていますし、また、人の寿命なんて、
誰にも分からないものだと思っています。

だから、もしかしたら、ピンピンしている私のほうが、
ある日ポックリ逝くかもしれない。
家の前で事故に遭って先に死ぬかもしれない。
ほんとに、人の寿命は、分からないものだと思いますね。

がんというものは、ほとんどの場合、自分の念いでつくってしまうものです。
姉の場合は、転移していた臓器を摘出してしまいましたので、
今度は、もう、その腫瘍をつくらないように心がけて欲しいと思っています。

けれども、娘の場合は、脳に出来た腫瘍なので、全部取り切ることが出来ず、
その腫瘍を小さくする免疫療法を受けています。
ただ、自分の念いでつくった腫瘍は、自分の念いで、
きっと、消滅させることが出来ると私は信じています。
人間の細胞は、日々、生まれ変わっていますから・・。

人間は自分の体を復元する能力を持っています。

それができないのは、人々が唯物論にかなり毒されていて、
「そういうことはできない」と思っているからです。

体を治そうとして、ずっと強く思念していれば、
ゆっくりとではあっても、いろいろなものが治っていきます。

「心と体のほんとうの関係」より

H0221.jpg

私は、大病はしたことがないですが、ずっと、強く思念しています。
「私は、病気にはなりません」と・・。

逆説的に言うと、「人は必ず死ぬものだ」という覚悟が早くできた人ほど、この世で与えられた人生を有意義に過ごすことができるわけです。それを考えもしないで遊びほうけていると、突然に死ぬことになります。それは、いつ来るか分からないのです。
誰しも平均寿命を中心に人生設計をしているでしょうが、そのとおりにはならないこともあります。そのため、いつ、この世を去ることになっても、「一定のお役には立てた。また、次のチャンスに賭けたい」という気持ちで去っていけるだけの生き方をする必要があるのです。それを考える必要があります。


病気になった人も、なっていない人も、必ず、死にます。
大川総裁が言われているように、「人は必ず死ぬものだ」
という覚悟を早くしていると、覚悟を決めた後の人生は、
ほんとに、有意義なものになっていくと思います。
そして、家族との別れは寂しいものだけど、それは、永遠の別れではないんですね。

死は永遠の別れではない
『死を悲しむのは霊界を知らないからでもあります。
「死んだ人とは、もう会えない」と思うかもしれませんが、私の場合は、「その人が、この世に生きているからこそ会わずに済んでいる」という人でも、死ぬと自由自在にやってくるので、うるさくて大変なのです。
この世では、誰かが私に会いたいと思っても、その人は、飛行機や自動車、電車等の交通機関を使わなければ、会いに来られません。また、私が「忙しいから」と言えば、
私は、その人と会わなくて済みます。
ところが、死んだ人の場合は、いつでも自由に来られるので、知人が死んだという話を聞くと、私は、率直な感想として、「これは大変なことになった」と思うのです。
死んでまもない人のことを一生懸命に思っていると、霊となったその人は、こちらの仕事に関係なく、毎日でもやってきます。
あの世の人は、死んだあと、しばらくは仕事がありません。あの世に還ると、すぐに仕事を持つ人は、よほど修行が進んでいる、使命のある人です。普通の人の場合は、死んだ直後は失業状態になっているので暇なのです。
そのため、この世の人が、その人のことを強く思い、念を出していると、やってくるのです。親に限らず、友人でも知り合いでも会社の同僚でもそうです。会社の同僚などが死んだとき、「どうしているかな」と、毎日、その人のことを思っていると、その人がやってきます。うるさくてしかたがないほどですから、気をつけなければいけません。
世間では、「死は永遠の別れであり、死ぬと、もう会えない」と言いますが、そうではありません。毎日でも来ます。 -中略
地上の人が霊能状態になると、思った瞬間に、どこへでも通じてしまいます。まさに、「一念三千」であって、思いのコントロールがどれほど大変かということです。
あの世には一瞬で通じますが、この世においても、ある人のことをあまり考えていると、やはり同通します。一定時間以上、特定の人のことを考えていると、その人と同通するのです。
特に、私の場合は、"テレビ電話"の世界であり、相手が生きている人間であっても、その人に少し思いを向けると、その人の表情や考えなどが、念波に乗って私のところへやってくるのです。そして、「そういうことが言いたいのだね。分かった、分かった」ということになります。
また、生きている人の念だけではなく、その人に憑いている霊までが一緒にやってきて、「いま、こういう状態にある」などと報告するので、これがまた、うるさいのです。
このように、霊的には、全世界、全人類に対するネットワークが、すでにできあがっているので、「いかにして思いをコントロールし、心を平静にするか」ということが非常に大事です。
その意味では、自己修行に専念したほうがよいのです。「多くの人を救済したい」と思えば思うほど、雑念から距離を取ることが大事になります。そういう修行をしないと、大勢の人に光を発信する仕事はできなくなるのです。』

      -2004年4月
      --- 「永遠の生命の世界」 第4章 先祖供養の真実 より

大川総裁は、霊能者なので、大変ですね。
死んだ方や、生きている方の念波まで受けてしまうんですね。
これは、ほんとうに、大変なことでしょうね。

私は、さほど霊感はありませんが、たまに、霊の姿を見ることはあります。
そして、おそらく、守護霊と思われる方の姿と声も、鮮明に覚えています。
そして、私の母は、霊媒師などと呼ばれたこともあるような霊感体質の人です。
だから、小さいときから、霊とは切り離せない世界に住んでいました。
そして、我が姉と娘もまた、霊感が強いんですね・・。
だから、念いも強いので、病気もつくっちゃうんですかね・・。

魂こそが人間の本体である
『医学的には、「脳死は人の死である。脳の機能が完全に停止すると、その人は死体と同じである」と言われていますが、はたして、それが真実なのかどうかについて、検討してみましょう。
私は、過去十数年間、宗教家として活動してきました。また、霊的な意識が開け、地上を去った世界の霊人たちと話ができるようになってから、すでに二十年以上にもなります。
その間、霊言集というものを数多く出してきました。歴史上、有名な人物たちの、霊になってからの考え方や思想を活字にし、書物にして、数多く世に問うてきました。
その数多い実体験から言えることは、「人間は脳で考えているのではない」ということです。「死んで火葬場で焼かれた人が、そのあとも、生前そっくりの癖や考え方を持ち、個性ある思想を展開できる」ということ、「人間は、死後も、そういう能力を持っている」ということは、厳然たる事実なのです。私はそれを真実として知っています。
人間は、脳で考えているのではありません。脳というものは、コンピューター的機能、
管理機能を持っているところであり、いわば管理室なのです。
そのため、脳という、"機械"が故障した人は、考えや思想を、外部に発表したり、身体で表現したりすることができなくなることがあります。しかし、それは機能における障害であって、実際は、考える力や意志をまったく失ったわけではないのです。
これが、脳死の問題において最も根幹をなす議論ではないかと思います。
すなわち、「人間は、魂、霊体の側に、考える中枢を持っている。それは肉体の生死とはかわりなく存在するものである。この魂こそが人間の本体であり、肉体は"乗り物"にすぎない」ということです。
ちょうど、肉体は自動車で、魂はその運転手のようなものです。自動車が故障しても、それは、「運転手が死亡した」ということにはつながりません。自動車は、故障すると進まなくなり、外見からは、運転手が機能を停止したようにも見えますが、それは運転手の生存とは別です。魂と肉体の関係は、これとよく似ているのです。』

      -2004年4月
      --- 「永遠の生命の世界」 第3章 脳死と臓器移植の問題点 より

病気は、肉体の故障です。
そして、老衰は、肉体の老化です。
でも、人間の本体は肉体ではなく、魂なんですね。

6例目の臓器提供を決められた家族の方が、こう言われていましたね。

「本人がどこかで生きていると思えることは私たちの心の支えになります」

この家族の方が言われている「本人がどこかで生きている」
という言葉は、肉体が、臓器が生きているという意味ですね。

でも、本人の魂は生きているんですよ。
それも、脳死の状態では、肉体も、魂も、両方生きているんです。
脳死の状態で、臓器を取り出したら、その時に、肉体が死ぬんです。
これは、生きている人を、殺しているんです。
そして、生きたまま体にメスを入れられたら、魂は、驚愕するんです。

脳死状態では魂はまだ生きようとしている
『それでは、「脳の機能が完全に停止した」と医者が言っている脳死状態において、
肉体と魂の関係は、どうなっているのでしょうか。
結論を述べると、「脳死状態においては、魂はまだ肉体と完全に密着した状態にある」ということです。「まだ心臓が動いており、血流があって、体が温かい状態においては、魂は、まだ肉体から離れておらず、生きようとして努力している」というのが真相なのです。
脳死状態になる人のなかには、交通事故などによって脳に障害を受けた人も多いだろうと思いますが、そういう人は、突然、事故に遭ったため、「自分が、いま、どのような状況に置かれているのか」ということを、充分に理解していないことが多いのです。そのため、医者に脳死宣言をされ、「死体になった」と言われても、大多数の人たちは、自分が死んでいるということを納得していません。
また、脳に反応がない場合、その人の考える力がまったくなく、周りの人の言葉も聞こえないかといえば、そうではありません。霊体というものは、耳の機能を通さなくても、周りの人たちの考えを読み取ることができます。口に出して語っていることだけではなく、心のなかで考えていることをも読み取ることができるのです。
したがって、病気の末期にある人でも、周りの人たちの言ってることや考えていることが、手に取るようにわかります。そして、「自分は、いま、何をされているか」ということを明確に知っているのです。』

      -2004年4月
      --- 「永遠の生命の世界」 第3章 脳死と臓器移植の問題点 より

自分の家族に、少しでも長く生きていて欲しいという気持ちは、
私にはよく分かります。
けれども、そうであるならば、なおさらのこと、死ぬ時は、
安らかな気持ちで死なせてあげたい。
生きたまま臓器を切り取られたら、魂は、安らかにあの世に還れません。

結論を述べると、「脳死状態においては、魂はまだ肉体と完全に密着した状態にある」ということです。「まだ心臓が動いており、血流があって、体が温かい状態においては、魂は、まだ肉体から離れておらず、生きようとして努力している」というのが真相なのです。

生きようと努力している人から、臓器をいくつも取り出す。
同じ人間なのに、なんと、残酷なことをしているのでしょうか。
魂は生きようとしているのに、肉体を殺されてしまったら、
その魂が、安らかにあの世に還れるわけがありません。

本人が承諾していても、きっと、すごい驚愕を覚えることでしょう。
それが、本人の意思も確認しないで、家族の承諾でなされたら、
あまりの驚愕と痛みで、きっと、家族まで恨んでしまうでしょう。

「人間の本質は脳にある。脳こそが人間の本質であり、
脳が機能しなくなれば、人間は死体も同然である」


この「唯脳論」は、新しい「唯物論」です。
人間は、死ねば終わり、脳の機能が停止したら終わり。
この考え方は、人間の本質を知らない方々の愚かな考え方です。

脳死状態では、まだ、人は生きています。
脳死状態では、まだ、魂は生きようとしています。
魂を否定される方は多いですが、では、
心は、精神はと聞けば、必ず「ある」と答えられます。

この心、精神が、魂なんです。
人は、死んでも、魂は残ります。
そして、必ず、あの世という世界に還るのです。
そう、還るのです。
この世のほうが、仮の姿なんです。
だから、肉体は滅びても、魂は、いろんな肉体に宿り、
幾転生を繰り返すのです。

一人でも多くの方に、この真実を知っていただきたい。
この真実を知れば、この世ですべきことが何なのかが、
おのずと分かって来るでしょう。

私たちは、永遠の生命を生きています。
死んでも、この魂は、永遠に生き続けます。
この自分の個性は、永遠に生き続けるのです。
だからこそ、魂を磨いて、あの世に持って還るのです。
磨いた魂は天国に還り、汚れた魂は地獄に還る。
これは、人間として、避けられない真実です。

唯物論で染まっている人は、そろそろ、自身の魂の存在を、
ちゃんと認めてあげてくれませんかね。
魂の兄弟達が、あの世から見ていてきっと、泣かれていますよ。
まあ、信じられなくても、「魂は残る」「魂は永遠の生命を生きる」
これだけでも、覚えておいてくださいませ。

死は突然にやってきます。
その時に、慌てないためにも、「人は必ず死ぬものだ」
という覚悟を決めて生きてゆきましょう。
そして、万が一、脳死状態になったときにどうするかは、
ちゃんと家族に伝えておきましょう。
「本人意思不明」だったら、家族承諾で、臓器摘出されちゃいますよ。

生きながら殺されても、人様のために臓器提供をしたいという、
天使のような方には反対はしませんが、痛みや、驚愕に耐えられず、
人を恨んでしまいそうな方は、どうぞ、
提供拒否の意思表示をしておいてくださいませ。
脳死状態になってからでは遅いですから~。

あっ、私も、意思表示をしておかなきゃ・・。
もちろん、提供拒否の意思表示です。

日本は、今、唯物論が蔓延り、人間の尊厳を忘れ、
人間を、まるで、物のように扱い始めています。

こんな世の中は、絶対に変えてゆきたい。
だから、一人でも多くの方に、真実に気付き、そして、
気付いた人がまた、他の人にお伝えして欲しい。
そうすることによって、きっと、少しずつ、世の中は変わってゆくでしょう。

安らかな気持ちで、死んでゆける世の中をつくってまいりましょう。←ちょっと変?
そのためにも、頑張って、声をあげてまいりましょう。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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コメント
命という人間の限界
生と死についての長い論考を書く、書きたいと思う気持ち、よく分かります。

私も、四親等以内の人間を10年以上続けて「亡くし」ましたから。

亡くすだけならまだしも、それにすったもんだが必ず付随して起きて来ました。
ある人が死んで葬式が済んだと思ったら、引き続き他の入院者への付き添いをしている所に、その家とのゴタゴタがやってくる…。
これが10年以上だと、さすがに悩乱してきました。
一番まずかったのは、その渦中に居るときには「まだ自分は正気だ」と思っていたことです。


あっ、脳死について。

そもそも「臓器移植法」なるものは、
「国会」で
「その時の国会議員」によって
「多数決」で決められたもの。



果たして、「多数決の原理」なるものはそれほどのものなのか?
それほどの決議の権能を有しているものなのか?
本来、これ(生死)は神の領域で、人間ごときにそのような権限はない、というのが私の見解です。
死ぬということは、一分(いちぶ)たりとも人間の自由にはなりませんでした。
神様が「ここまで」といったら、そこまでです。
いやもおうもありませんでした。

病んでいても老いていても、それなりにある程度は動き、そして話す(意志を伝える)ことは出来ます。
しかし、寿命は神様の領域。
祈りお願いすることはできましたが、
たった一秒も思うようにはなりませんでした。
待った無し。

だからこそ私は、命というものへの畏れと敬いー畏敬と尊崇の心を持ち続けたいと思っております。

思い、語れる命と自由を使って。
2010/09/05(日) 08:10 | URL | 盲亀 #-[ 編集]
Re: 命という人間の限界
盲亀さん、いらっしゃいませ~。

生と死については、幼い頃からの疑問でした。
「人間は、何のために生まれてきたのだろう」
そして、
「何を思って死ぬのだろう」と。

大川総裁の書籍に出会った時、長年の疑問が解けました。
けれども、現実に生きる私たちに、さまざまな問題が目の前に現れた時、
改めて、死とはなんなんだろう・・と考える今日この頃です。

盲亀さんも、人生のなかで、もうすでに、
死の問題に直面されているんですね。v-421

この死の問題は、人間すべての人にとって、
避けて通れない問題ですね。

臓器移植が、どんどん増えていくなかで、
この死の問題を、さらに深く考える機会を得ました。

家族承諾で増える臓器移植。
家族だからこそ、死にゆく人の心を理解してあげて欲しい。
死にゆく人を、安らかな心で逝かせてあげて欲しい。
見守ってあげて欲しい。
そう強く思います。

法律とは何ぞや。
人間心で決めた法律は、すでに、神の領域を犯していますね。

謙虚な心で、与えられた生をまっとうし、
安らかな気持ちで天に還られる方が増えることを願っています。

ありがとうございました。v-421
2010/09/05(日) 13:07 | URL | はっぴーらぶ #n/0B42F.[ 編集]
No title
らぶさん、お久しぶりです。
といってもご活躍は拝見していますよ~!

脳死問題は考えさせられると同時に悲しくなります。
多くの方に魂の存在を知っていただきたいです。

心の中のボヤキがマックスになりましたので、ボヤキ足りない分はらぶさんの記事を勝手ながら拝借させていただきました。いつも、細やかな優しさのある記事をありがとうございます。これからも楽しみに応援していま~すv-65
2010/09/10(金) 12:37 | URL | ayumama #-[ 編集]
Re: No title
ayuちゃん、いらっしゃいませ~。
元気ですか~。

このコメに気付かず、先に、
あなたのブログ記事を読んでびっくりしました~。v-405
子供たちの未来を守りましょう-幸福実現党-
http://bb52mram.blog51.fc2.com/
ご紹介、ありがとうございます~。

脳死の真実、これからも、訴え続けてまいりましょう。v-91
ありがとうございました~。v-436
2010/09/10(金) 13:32 | URL | はっぴーらぶ #n/0B42F.[ 編集]
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バリバリなにわの育ちです。
「人生は一冊の問題集」
人生の問題集を、ひたすら、
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